瀟洒、典雅

日々思ったこととか、学んだことをアウトプットしていく

おカネは天から降ってこないという発想

私の家は農家なので、親はずっと家で働いていた。
畑を耕して作物を育てる。牛や鶏に餌をやる。
そうやってはたらく両親を小さなころからずっと見てきて、時には泥にまみれて手伝いもした。
おカネは、泥と汗と牛糞のにおいがするものだ。命を切り刻んで、はたらいて、初めて得られるものだということを事実として理解する前に、本能で感じ取っていた。
 
印象に残っているのは、牛の思い出である。
家に牛舎があって、牛がたくさんいた。
牛は産まれてたった1時間で立つ。そして、1か月で親から引き離される。
そして健康な牛は、トラックに乗って競り市に連れていかれるのだ。そこでどこかに売られ、肉となる。
かわいそうなのは、親牛から引き離された晩、子牛が悲しくて涙を流しながら泣いている声をきくときだ。
牛は、悲しいという感情をもっていて、涙を流すのだ。人と同じである。
 
当たり前だが、何かしらの価値を生まなければおカネを手に入れることは出来ない。
生きていくためには。
 

最近泣きたくなったのは

 

映画を観た時

 

アイアムサムの、サムがダコタファニングに「こんなパパでゴメン」って言った時。それに対するダコタファニングの答え。

 

あのトムハンクスが出てる、無実の囚人が死刑になる映画の、死刑囚が初めて映画を観た時。

 

 博士と彼女のセオリーの最後らへん。

 

ライフイズビューティフルのお父さんが死ぬ所。

ニューシネマパラダイス

ワンデイ

坂道のアポロン

 

あと多分他にもあったけど、今思い出せるのはこれくらい。

 

リアルでは。

 

中学のとき、一回だけ。

高校では、もう少し3回くらい?嬉しいのと悲しいのと半分くらい。

 

そして大学に入って母の苦悩をきいたとき。

 

ある、どうしようもなく孤独なよる。

 

それからさっき、この2年間を振り返って、感謝と懐かしさが溢れたとき。 

 

近年、嬉しくて泣く割合が増えたことに喜びを感じる。

嬉しくて、感動して泣くということを人生の中でどれだけできるか。

チャレンジしていきたい。

 

色々なことを、もっと大事にしたい

 

日常や、日々の些細なことを蔑ろにしたくないと思う。

もっと繊細に、いろいろ感じたいと思うし、何層にも重ねられた厚みのある自分になりたい。

色々なことを知って、知っているだけでなくその知識を自分の価値観の糧としたい。

薄い今のままでは嫌だ。

 

もっと、何もないと思える日常にも、必ず何かがあるはずなのだ。

感じたい、もっと。言葉をもちたい。

 

伝えたい事なんてなにもないと、思うことがよくある。何故か。

きっと、何にも心動かされたり、強烈な感情をもてていないからだ。普段から。

強烈な感情。

喜びや悲しみ、痛みやワクワクなど、もっと感じたい。感じられる感度が欲しい。

濃い時間を過ごしたいのだ。

日々なんとなく過ごしてしまいたくない。

いま、過ごしてしまっているのだ。

 

過ぎ去ってしまえば、あってもなくても同じだと思うような人生はいやだ。

これからどんな人になっていきたいのか

 

最近、いろいろな事を考えた。

私は今までの人生で何を捨て、何を拾ってきたのか。

正確に言えば、大学生活で何を捨てたのか。

高校生までは、おそらく何も捨ててはいなかった。来るものはすべて受け入れ、去る者は追った。

人から良く思われたいとかは、まあ思ってはいたけれど、そのために死ぬほど見栄を張ったりはしていなかった。まっすぐだった。

 

しかし、大学生となり見栄を張ることしかしなくなった。スゴイと思われたい、羨ましがられたい。すべての行動の根底には、その醜い思いがあったし、それがすべての原動力であった。

そしていつからかその思いは、複雑に進化し、私が憧れている人だけにスゴイとか良いと思われればいいと思うようになった。

 他人の価値観の中で生きたくない。自分でいいじゃないか。自分が良いと思う事をすればいいじゃないか。

 

もうこれ以上、見栄を張ったり嘘をついたりはしたくない。好きな人にどう好かれるかではなく、好きな人を好きでいて、その人のために何かできることはないかを考えたい。

他人と自分。その関係をあくまで冷静に。冷めた目で見ていきたい。

 

じゃあそのうえで、どういうスタンスで他人と関わっていこうか。

今までは大半の興味が持てない他人、知り合い含む、には最低限の省エネで。

自分を褒めてくれたり、良い気持ちにさせてくれる他人に対してはやさしく常にマウンティング。

話していて勉強になる人には等身大で。

目上の人や、好きな人には媚びへつらって。

いきてきた。

最低だ。自分の意地汚さにヘドが出る。

なんかもう、こんなのはやめたい。

 

いろいろ問題はあるが、ひとつめの問題は大半の他人に興味がもてないということだ。

だから、深く関わろうとそもそも思わない。

どんな人間からでも、学ぼうと思えば学べることはたくさんあるし、もしそれができないのだとしたら、私の対人能力や汲み取る能力に欠陥があるからに過ぎない。

そして、マウンティング。

年下や、自分の専門分野外の友人にはマウンティングしてしまうのだ。つねに。病的なほどに。

自分なんてしょうもない人間だし、知らないことだらけだ、という気持ちと、私は21女としては結構ものを知っている方じゃないのか、という矛盾したふたつの自意識が拮抗している。

 

謙虚でいたいと思う。偉そうなやつは嫌いだ。

でも、私が与えられるものがあるのならば与えたい。

どうすればいいか。

結論は、相手の立場に立つということだろうか。

 

誰かに好かれるために、じゃなくてその人の事が好きだから、私にできることをしていきたい。私と関わってくれてありがとう、という気持ちで、恩を返すつもりで、関わっていきたい。はっきりとした結論はまだ、出ない。

人間としての深みが欲しい

 

先日、メンヘラちっくな彼氏と付き合っている女の子とあったのだが、とても面白かった。

 

それはもう、いろいろな激しい経験をしていて、私じゃあ足元にも及ばなかった。

人間としてのあつみが、女としての貫禄が、まったく違った。

言葉にも重みがあった。

 

べつに、メンヘラちっくな彼氏はいらないが、もしかしたら恋愛というのはひとの人間的な成長に不可欠なのかもしれない。そう思った。

私の人間的な薄さは、恋愛経験の少なさに基づいているのかもしれない。

だって、誰かと深く愛し合ったり、それはもうむき出しで、憎しみあったり、思い合ったり、そういう経験でしか得られないものはきっとある。

ワンステップ人間力を高めるために、そろそろ恋愛をしなくては。

だって、激しめの経験をして人生の密度を高めるってのは、私の人生のテーマでしょ。

あの人みたいになりたい

 

とても素敵なひとである。

頭が良い。いろいろな事を知っていて、惜しみなく教えてくれる。

でも決してエラそうではない。謙虚である。

 

だからたくさんの人に好かれるし、信頼される。

 

そして何より、海のように深いやさしさをもっている。もう、端々からやさしさが溢れ出ている。普段の言動から滲み出ている。

80%はやさしさでできている。あこがれだ。