嫌いの反対は無関心ということ
表題の通りである。
私は嫌いな人間というのがいない。
よく、人に驚かれるけれども、むしろ嫌いな人間がいるというほうが驚きである。
私は、好きな人間と興味がない人間の2パターンしかいない。
好きの反対は無関心だとはよく言われるけれど、その通りである。
嫌いとはその相手のことをよく見ていて、めちゃくちゃ考えている。
嫌いは好きである。
そもそも、嫌いとは何なのだろうか。
そいつの一挙一動が気にくわない?消えて欲しいと思う?痛めつけてやりたい?
すごいエネルギーである。
そんなに悪い人間にそもそも出会っていないというのもあるかもしれない。
となれば、私は運が良いのだ。
音楽について
音楽について、聞いた時のイメージや記憶を引きずる。
beatlesのall my loving
across the universeというミュージカル映画の中で初めて聞いた。
バックには海鳥の鳴く声、別れのキス。
これは愛のうただけれど、私はこの曲をきくたびにいつも寂しくなってしまう。
どうも潮と別れの匂いがする。
椎名林檎のシドと白昼夢、
初めて聞いたのは、高校生の頃
自分の小さな部屋で受験勉強をしながらソニーのウォークマンだった。
まだ恋をしたこともなかったけれど、殺されてもいいと思うくらいの誰かがこの世にはいるのだろうと思った。
bumpの目の前のドアをくぐれたら
人生でいちばん辛い中学生の時期であった。
早く次のドアにたどり着きたかった。
依頼のこと
お願いをする、というのは自分の身を削る行為である。
今まで培ってきたものや、例えば培ってきたものが0であれば
先の信頼を前借り。
そうやって身を削り合って世の中は回っている。
問い続けること
雑務に忙殺されると、
問うことを忘れてしまう。なぜなのか。
全てのことが。
学生の時は、何もなかったからこそ
目の前の現実に問い掛けるしかなかった。
私とは何なのか。何のために生きているのか。
ゴールはどこにあるのか。
明日、何をすれば良いのか。
会社や社会から、ミッションを与えられると
途端に問うことを辞めてしまった。
ゴールを信じて、進むことは楽である。
楽であるし、楽しい。
ただ、それだけじゃだめなのだ。
問い続け、反発しなくてはいけない。
なぜみんな
なぜ、世の中の人というのは自分以外の人間をすぐにカテゴリーわけしたがるのか。
自分の目に見えている他人のたった一部だけをみて判断を下しすぎである。
ある人間に見えている、人間とは
そのひとの主観というフィルターもかかったうえでのほんとうに一面でしかないと思う。
なぜ判断したがるのか、少ない情報で自分の引き出しに入れてしまいたがるのか。
もったいないなと思う。