国際協力を疑っていたら、援助されている途上国はむしろ自分だと気づいた
さっきハッとしたこと。
国際開発という、1ミリも興味がない授業を取っていて、明日提出のレポートを書いている。
私はそもそも国際協力というものに懐疑的であった。
というのも、なんで自国の経済の雲行きも怪しい日本が他人の世話まで焼かにゃならんのだという考えだ。
国内でも貧困にあえいでいる人はたくさんいるし、何なら私の実家だって貧困だ。(べつに普通に食べれていたけれど、国の平均所得?なんかこれ以下の所得だったら貧困層ですよ、というボーダーラインを下回っていたのでショックを受けた覚えがある)
そもそも国際”協力”って。協力とは、違う種類の同じレベルの力をもった者同士がお互いに助け合うということだ。例えば体育祭の準備なんかでテントを4人で運んだことがあるだろう。あのとき、一人だけやたら力がないやつがいたらテントを持ち上げることはできない。
私は冷たい人間だろうか、と思ったがこれもこれで一つの見方だと思う。
人生は究極ギブ&テイクであると思っているし、何の価値も生まない者は存在してはいけないと思う。
まあまあ、もう少し調べていくと国際協力のそもそもの目的というのは
途上国を発展させてそこの国との関係を築いたり、商品を輸出したりとながいめで見ればメリットを享受できるそうだ。
確かに我々は、昔の日本人や、個人レベルで言えば親や先祖が昔売った恩によって得をしたりする。うんうん、そういうことだ。
受けた恩は世の中に返せ、みたいな。情けは人の為ならず?みたいな。納得できる。
そもそも、何の価値も生んでいない1大学生の私が存在することを許されている=世の中から援助されているといえないか。
途上国は自分だ。
世の中は、私が大人になったら、(ってもう二十歳超えた大人だけども)世の中に価値を還元してくれると信じているから生かしていてくれるのだ。
先輩が後輩を指導するのは?上司が部下を教えるのは?
与える側に直接的で即物的なメリットはないにしても生み出されている援助がこんなにある。すべてはポテンシャルがあるという理由で。
まあ、回り回って、途上国を援助するのは先進国の義務なのかもしれないと思った。
私はキリスト教的な考えを普段からしているわけではないけれど。
うん世界はひとつなんだし。