そのイライラは、誰に対するものなのか
今日は2回イライラすることがあった。
1回目は、駅のトイレで。
大荷物を抱えて、トイレに入った。4つのうち3つが和式1つが洋式で、私の前にいた人が洋式トイレに入った。
大荷物を持って和式トイレはしんどいので、仕方なく待っているが、
待てど暮らせど出てこない。しびれを切らして空いている和式トイレに入った。
私が出てきたあともまだ洋式トイレのドアは閉まっており、「まったくあんたのためだけのトイレじゃあないんだよ」と1イライラ。
2回目は家族に対して。
私は今日人生で初めて財布を紛失した。完全に私の失態だ。
クレジットカード会社やその他各所に電話をかけている私に家族はご飯を食べろなどと声をかけてくる。
それに対して2回目のイライラ。こっちは緊急事態なんだよ。
完全に自業自得なのに最悪だったと思う。
今日のこの二つについてよく考えてみた。
1つ目のイライラは、トイレで長居していたオバサンへのイライラではない。
こんなに大荷物を抱えているのに不便な和式トイレを使わなくてはいけない、さらに抽象化すると、自分が不便を強いられることへのイライラである。
二つ目のイライラは、自分の失態に対するイライラ。
つまり、イライラの対象は自分なのだ。他人ではない。
ひな鳥の刷り込みの話を思い出した。生まれた時に見たものを親だと思い込むみたいな話。
イライラしている瞬間に近くにいた人間をイライラの対象にすり替えてしまう現状である。
しかし、私はあまりイライラする質ではないと自負しているが、財布をなくすなどという緊急事態の際はイライラしてしまうのも仕方がないと思う。
イライラの対象をすり替えて、誰かを理不尽に嫌ってしまうような失態だけは犯したくない。誰かを嫌うということは、自分の世界を狭めてしまうことだと思うから。