瀟洒、典雅

日々思ったこととか、学んだことをアウトプットしていく

これからどんな人になっていきたいのか

 

最近、いろいろな事を考えた。

私は今までの人生で何を捨て、何を拾ってきたのか。

正確に言えば、大学生活で何を捨てたのか。

高校生までは、おそらく何も捨ててはいなかった。来るものはすべて受け入れ、去る者は追った。

人から良く思われたいとかは、まあ思ってはいたけれど、そのために死ぬほど見栄を張ったりはしていなかった。まっすぐだった。

 

しかし、大学生となり見栄を張ることしかしなくなった。スゴイと思われたい、羨ましがられたい。すべての行動の根底には、その醜い思いがあったし、それがすべての原動力であった。

そしていつからかその思いは、複雑に進化し、私が憧れている人だけにスゴイとか良いと思われればいいと思うようになった。

 他人の価値観の中で生きたくない。自分でいいじゃないか。自分が良いと思う事をすればいいじゃないか。

 

もうこれ以上、見栄を張ったり嘘をついたりはしたくない。好きな人にどう好かれるかではなく、好きな人を好きでいて、その人のために何かできることはないかを考えたい。

他人と自分。その関係をあくまで冷静に。冷めた目で見ていきたい。

 

じゃあそのうえで、どういうスタンスで他人と関わっていこうか。

今までは大半の興味が持てない他人、知り合い含む、には最低限の省エネで。

自分を褒めてくれたり、良い気持ちにさせてくれる他人に対してはやさしく常にマウンティング。

話していて勉強になる人には等身大で。

目上の人や、好きな人には媚びへつらって。

いきてきた。

最低だ。自分の意地汚さにヘドが出る。

なんかもう、こんなのはやめたい。

 

いろいろ問題はあるが、ひとつめの問題は大半の他人に興味がもてないということだ。

だから、深く関わろうとそもそも思わない。

どんな人間からでも、学ぼうと思えば学べることはたくさんあるし、もしそれができないのだとしたら、私の対人能力や汲み取る能力に欠陥があるからに過ぎない。

そして、マウンティング。

年下や、自分の専門分野外の友人にはマウンティングしてしまうのだ。つねに。病的なほどに。

自分なんてしょうもない人間だし、知らないことだらけだ、という気持ちと、私は21女としては結構ものを知っている方じゃないのか、という矛盾したふたつの自意識が拮抗している。

 

謙虚でいたいと思う。偉そうなやつは嫌いだ。

でも、私が与えられるものがあるのならば与えたい。

どうすればいいか。

結論は、相手の立場に立つということだろうか。

 

誰かに好かれるために、じゃなくてその人の事が好きだから、私にできることをしていきたい。私と関わってくれてありがとう、という気持ちで、恩を返すつもりで、関わっていきたい。はっきりとした結論はまだ、出ない。

人間としての深みが欲しい

 

先日、メンヘラちっくな彼氏と付き合っている女の子とあったのだが、とても面白かった。

 

それはもう、いろいろな激しい経験をしていて、私じゃあ足元にも及ばなかった。

人間としてのあつみが、女としての貫禄が、まったく違った。

言葉にも重みがあった。

 

べつに、メンヘラちっくな彼氏はいらないが、もしかしたら恋愛というのはひとの人間的な成長に不可欠なのかもしれない。そう思った。

私の人間的な薄さは、恋愛経験の少なさに基づいているのかもしれない。

だって、誰かと深く愛し合ったり、それはもうむき出しで、憎しみあったり、思い合ったり、そういう経験でしか得られないものはきっとある。

ワンステップ人間力を高めるために、そろそろ恋愛をしなくては。

だって、激しめの経験をして人生の密度を高めるってのは、私の人生のテーマでしょ。

あの人みたいになりたい

 

とても素敵なひとである。

頭が良い。いろいろな事を知っていて、惜しみなく教えてくれる。

でも決してエラそうではない。謙虚である。

 

だからたくさんの人に好かれるし、信頼される。

 

そして何より、海のように深いやさしさをもっている。もう、端々からやさしさが溢れ出ている。普段の言動から滲み出ている。

80%はやさしさでできている。あこがれだ。

 

 

 

 

ハードワーク

 

何か大きなことを成し遂げるために、ハードワークは必要なのだろうか。

サイバーエージェントの藤田さんなどはハードワーク推奨派っぽい。本読む限り。

denaの南場さんも本を読む限りハードワーク推し。知り合いの経営者も、若い頃は寝ずに働いていたというし、現代成功を収めている人でハードワークしていない人はいないのかもしれない。

 

さすがに24時間365日フル稼働を何十年もやるのは無理だろう。寿命が縮む。

いや、ちょっと待った。

寿命が縮むことがなんだっていうんだ。

それで濃い時間を過ごせて、何か大きな事を成し遂げることができるのであればいいじゃないか。チャラである。

数年間で、数十年分の人生の濃さを味わえるのだ。数十年かけて、うすーく数年分の経験をするよりもずっといいや。

計測不可能なものは、改善不可能である

 

さいきんつくづく思う。

計測できないということは行った施策が全く意味を持たないということだ。

そして意外にも、これに気づかぬ人は多いのだ。

 

どんな改善も、さらなる改善を重ねる事ができなければ意味がない。

トイレで死について考える

 

さいきん胃腸がめっきり弱くなってしまい、頻繁にお腹をこわすようになった。

以前は、少々賞味期限の切れた乳製品を食べても平気だったのに、最近ときたら。

すぐにトイレに駆け込んでしまう。

悲しい限りだ。これが老いというものなのだ。

 

トイレではよく死について考えてしまう。

もちろんお腹が痛い極限状態の時は、何も考えられないが、極限を過ぎて少し余裕が出てくると、頭をよぎるのは死だ。

 

自分はどうやって死ぬのか。

死ぬまで、どういう風に生きていくのか。

幸せなのか。理想の死に方は、あれだ。

前にテレビでみた笑い死にした人。

確か、笑いが止まらなくなって窒息死してしまったのだ。苦しいだろうか。

でも、いちばん幸せなんじゃないかと思う。

 

精一杯生きて、おばあさんになって

病院のベッドの上で、誰か大切な人の一言がおかしくて、笑いすぎてそのまま死んでしまえたら幸せだ。

と、そこまで考えた。

トイレというのはナイーブになるからダメだ。

坂道のアポロン

 

LINEマンガで坂道のアポロンという漫画をやっていた。

面白かったので、アニメを一気見してしまった。

 

青春と音楽と、羨望と嫉妬、友情と恋と夢と希望がつまっていた。みずみずしくて、まぶしかった。

高校時代を少しだけ思い出した。

私の高校時代も、それはとても楽しく、同時に小さなチクっとするような痛みも、あったような気がするけど、ゆるやかに楽しかった。

でも、坂道のアポロンみたいに、それはもう全身で苦しんだり、楽しんだり、恋に身を焦がしたり、誰かに憎しみに近い羨望の眼差しで見たことはなかった。あんなに激しく、けばけばしいカラーではなかった。

 

あんなに、本気で全身で、命いっぱいに生きられたら気持ち良いだろうと思う。

大事な場面でコソコソと逃げ出したり、勝負に出なかったりする人生はもうやめだ。

 

敢えて危ない道を渡るような気持ちで、傷付いても、それ以上に大きなものを得る気持ちで、全身で人生にぶつかっていきたい。

誰にも頼まれていない。

でも、やるしかないのだ。

私の色を見つけたい。