瀟洒、典雅

日々思ったこととか、学んだことをアウトプットしていく

孤独に食べるからこそor誰かと食べるからこそ

 

世の中には、孤独に食べるからこそ美味しいものと、誰かと食べるからこそ美味しいものがある。

 

例えば、カロリーの高いコンビニ弁当なんかはひとりでがつがつと食べたい。

ただカロリーを摂取することだけに集中して、もう本能のままに、ひどい顔をしてたったひとりの部屋で食べたい。

 

反対に、おしゃれなイタリアンなどは誰かと一緒に食べたい。

フォークとナイフを行儀よく使って、上品に見えるように気をつけて食べたい。

それだからこそ美味しい。

 

どちらの食事も好きである。

ただ、前者のような食事ばかりだと心が荒むし、後者の食事ばかりだと気持ちが休まらない。

 

バランスが大切である。

 

心の底からの望みって何だろう

好きな人と働きたい。

イケてる人と働きたい。

好かれたい。君がいるから、と言われたい。

 

誰かを喜ばせたい。

家族を幸せにしたい。

 

君といるとラクだわ、って言われたい。

君がいてよかったわ、って言われたい。

 

必要とされたい。

面白いねって思われたい。

 

勇気のある人になりたい。

感謝されたい。誰かを全身で、愛したい。

 

誰かの大切な人になりたい。

 

嘘をつかずに生きていきたい。 

気持ちが落ち込むことなく生きていきたい。

 

と思う22歳。

他人に興味がわかない時期

が定期的にやってくる。

というか、四六時中他人に興味津々な人間なんているのだろうか。

 

みんな、自分のことに精一杯で、例に漏れず私も自分のことに精一杯である。

相手によく思われたい、とかカワイイやつだと思われたい。面白いやつだと思われたい。

みたいな醜い思いばかりがドロドロと渦巻いている。

 

だから、誰かと話しているとき、そいつの話なんて半分しか聞いていない。

次に何を話そうか、どんな質問をしたら「あ、こいつ出来るやつだな」と思われるだろうか。こんなことを聞いたらバカだと思われないだろうか。

 

こんなのは嫌だな。何も自分がよく思われるためだけにその人と話しているわけではないのに。

 

どうすればいいだろうか。

一つ思いついたのだが、常に「目の前のこの人を楽しませよう」という意識をもてばいいんじゃなかろうか。

ただ、気をつけなくてはいけないのは「私と話していて楽しいと思ってもらう」のではなく、ただ純粋にそいつのハッピーを達成するために務めるということだ。

下心のあるコミュニケーションは常にバレる。

 

私はいらない。

こいつが楽しければそれでいいのだ。

 

というスタンスを大切にしたい。

ちょっと相手のことを意識すると、喉がキッとなって言葉が出てこなくなる病について

 

恋愛においての話である。

ちょっといいな、とかこの人すきだな、と気付いた途端急に喉がしまったように言葉が出てこなくなる。

グェッとまで言いそうになる。

 

まったく、しょうもない自分である。

コミュ力を上げたい、心から。

最前線

最前線で生きることができているだろうか。

ちょっと痛い、えぐられる、でも成長できる、そんな風に思いながら生きることができているだろうか。

 

人との関係も、仕事も、成長も、本気で向き合えばリスクが伴うし、無傷ではいられない。

小さなかすりきずや、時には深い切り傷さえも避けては通れない。

その傷がふさがって、かさぶたが出来た時初めて1ミリだけ成長できるのだ。

自分の中の面白い価値観の見つけ方

 

やはり他人と一段深く話す事である。

世間話をしていても、相手のことは何も分からない。

 

相手の価値観に無理やり触れ、えぐるような話を定期的にしなくてはいけない。

そもそももともとへ価値観などもっていないのだから、他人との会話ん通して価値観を形成していかなくてはいけないのだ。

これは嫌だ、これはすきだ。これについてはこう思う。

 

それらをきちんとしっくりくる言葉で言語化していくこと。

苦しみと前進

はてブで話題になっていたこの記事。

童貞を卒業してしまったら、精神年齢がストップするというところが面白かった。

 

これはかなりうなずける。

まだティーンエイジャーだった頃は、色々なことが不満で、不思議で、死にそうなほど悩んだりした。

自意識。

どうにもならないこと、例えばこれから生きていくことや死んでいくことへの絶望感。

 

池澤夏樹の本に、朝焼けと旅人という詩があった。内容は、ずっと「美しい朝焼け」を集めていた旅人がある日それまでに見たこともないくらい美しい朝焼けを見たことから、満足して朝焼けを見ることを辞めてしまうというものだ。

 

これと似たところがある。

 

模索することや、どうしようもないことで悩み苦しむことを辞めてしまうのだ。

それは辞めてもいいことなのかもしれない。

しかし、悩み苦しむことは魂を磨くことのようなものだと思うのだ。

 

童貞を過ぎ去ってからでは至れない境地に達することができる。