問い続けること
雑務に忙殺されると、
問うことを忘れてしまう。なぜなのか。
全てのことが。
学生の時は、何もなかったからこそ
目の前の現実に問い掛けるしかなかった。
私とは何なのか。何のために生きているのか。
ゴールはどこにあるのか。
明日、何をすれば良いのか。
会社や社会から、ミッションを与えられると
途端に問うことを辞めてしまった。
ゴールを信じて、進むことは楽である。
楽であるし、楽しい。
ただ、それだけじゃだめなのだ。
問い続け、反発しなくてはいけない。
なぜみんな
なぜ、世の中の人というのは自分以外の人間をすぐにカテゴリーわけしたがるのか。
自分の目に見えている他人のたった一部だけをみて判断を下しすぎである。
ある人間に見えている、人間とは
そのひとの主観というフィルターもかかったうえでのほんとうに一面でしかないと思う。
なぜ判断したがるのか、少ない情報で自分の引き出しに入れてしまいたがるのか。
もったいないなと思う。
靴ずれの痛みは、終わった恋を捨て去るときの痛みなのだ。
最近久々に、9センチもヒールのある靴を買った。
ヒールは良い。
はいて歩くだけで、背筋がしゃんと伸びる。地面を叩く音が、耳に心地良い。
なぜ、ヒールを買ったのかというと最近いいなと思っている人が、私よりも30センチも背が高いからだ。
我ながら、くだらない女である。
そして夕方には、思っていたとおり靴ずれができた。
恵比寿駅までの坂道を登りながら泣いた。この痛みは、終わった恋にさよならするための痛みだ。
前に好きだったひとは、男性にしては背が低かった。
私よりも少し高いくらいの身長で、一重まぶただった。
だから私は、彼の身長を追い越さないようにかかとの低い靴ばかりをはいていた。
カジュアルな彼の隣りにいても浮かないように、デニムばかりはいていた。
彼が好きだったOasisやEmbraceを貪り聞いて、Java scriptを少しだけかじった。(彼はエンジニアだった)
そうやって、思いを伝えることはできずに、11月は過ぎて彼は私の前からいなくなった。きちんと失恋することもできない、不完全燃焼な恋であった。
そんなことを思い出した。
夕焼けとは、人を必要以上にセンチメンタルにするから良くない。
今でもUKロックは好きで、相変わらずデニムもはいているけれど、
たぶんしばらくはかかとの低い靴は履かないかな。
心の土壌
時期によって、よく考えることや思い悩むことは変化する。
たとえば大学の頃は、自分の性格とか、友だちが少ないこととか、
高校の頃は容姿とか、ちょっと脚が太いこととか。
そんなことを本気で悩んで、考えて、辛くなっていた。
当時はそれしか見えなくて、もう、ああってなってたりもしたんだけど、ちょっと経った今現在、これらの悩みがほぼほぼ消滅してしまっているから不思議だ。
容姿なんて変わらないし、友だちが急に300人増えたわけでもない。
ふしぎだ。