自分コントロールどうしたらいいかな
さいきん、色んな締め切りに追い込まれていて
睡眠もキチンと取れない日が続いた。
やっと今、ひと段落してこうして文章を書いている。
ついつい物事を先延ばしにしてしまう自分をちょっと受け入れてみようという取り組みをしていた。
なんというか、やりたいことややらなくてはいけないことがありすぎると。
仕事、学校、卒論、遊び、両親のこと、引っ越し、その他諸々。あーーー。
だから、私はほんとうに重要な事以外は、最小限の時間と労力でギリギリ60点を取れるくらいの努力をすることに決めた。
その結果がこの一週間だ。ひじょうに苦しかった。
疲れすぎて今日は朝の用事(試練)が終わったあとは昼寝をしたり、一日ダラダラしていた。
こんなにダラダラと無為な時間を過ごしたのは久しぶりだ。
そこで私は考えた。
これ、すごいコスパ悪いんじゃないか。
最小限の努力どころか、短期的にアドレナリンを出しすぎたせいで一日つぶしてしまったのだ。ムダだ。すごいもったいない時間の使い方だ。人生は有限なのに。
これは、ひょっとしたら先延ばしにする自分を受け入れてみるという取り組みが失敗に終わったのかもしれない。
・・・・・
次回は、先延ばしにせず、期限から逆算して計画的にいろいろなことを終わらせるという取り組みをしてみようか。
大学は必要だったのかという疑問
あと2ヶ月後に卒業を迎える。
大学は私の人生において必要だったのだろうか。
答えはイエスだ。必要だった。
大学はただのモラトリアム期間だ。
暇だったから、世の中について考えたり、自分のこれから進むべき道について悩んだり、正しい事ってなんだろうと思いを巡らすことができた。
逆に言えば、それだけの価値しかなかった。
人生のスキマである。
だから、別に大学に行く必要はなかったのかもしれない。大学の授業料などかかった総額800万円あまりを使って、起業するとか、世界一周するとか、小説を書くとか。
そういうことをするでも良かったのかも知れない。
でもまあ、まもなく卒業するわけだしそんなことを言っても仕方がない。
ほんとうに他の選択肢ではなく大学に入学したという選択に、後悔がないのかと問われれば、まだ100%でイエスとは言えないが、これを大正解にしていくかどうかは、これからである。
女の子らしくいたくないという病
今年の大河ドラマは、女ながらに男として家督を継いだ人物の物語だという。
ニュースのヘッドラインを見ただけなので詳しくは知らないが。
小さいころの自分を思い出した。
私は、小さいころ、たぶん小学校低学年くらいのとき「女の子らしい」とか「女の子らしく」といった事柄を毛嫌いしていた。女の子らしい服装や、女の子なんだから大学なんて行かなくていい、とか女の子なんだから口出しするな、みたいな、そういったあれこれに腹を立てていたのだ。
だから、女の子らしい服装はせず、いつも男の子みたいな服を着て、男の子と喧嘩もしていた。まあ、そういうあからさまな行動は1年くらいで収まったが、その女の子というカテゴリーだけで私を見ないでほしい、という思いみたいなものは今でも持っている。
あの脅迫的ともいえる女の子らしさへの抵抗は何だったのであろうか。
一つは、みんなと一緒は嫌だみたいな思いがあった。それから、生まれ持った自分にはどうしようもできない属性によって、何らかのカテゴリーに振り分けられ、その役割を押し付けられることへの嫌悪感みたいな。
だから、いつだって個性的な人に憧れていたし少数派でいたかったし、心はアウトローだった。大勢の中の一人ではなく、たったひとりの私でいたかったんだ。
笑い上戸な人たち
母方の親族はみんなゲラである。
なんでもないことで大笑いする。
笑われるのは気持ちの良いことだ。
自分が言った、何気ないひとことや、はたまた渾身のひとことで、大笑いが起こったら快感だ。
少しでも笑えそうなものは、絶対に見逃さないぞという目で世の中をみている。
そして、面白かったことは、その温度のままシェアする。
笑いの沸点が低いことは、きっと良いことだ。