相手の一面を見ただけで、相手の事をすべて知った気になっている件と他人の時間を惜しまなくてはいけない件
相手の一面を見ただけで、相手の事をすべて知った気になっている件と他人の時間を惜しまなくてはいけない件について
どちらも誰しもやってしまいがちなことである。
私も。
まず1つ目の件であるが
例えば、初めて会った時無口で不愛想な人がいたとする。ほとんどの人は、この人無口で不愛想なんだな、と思うであろう。
しかし、果たしてそれは真実であろうか。たまたま彼はその日3年に1回くるくらいの体調が悪い日だったのかもしれないし、5年付き合った彼女に振られた翌日だったのかもしれない。
分かった気になるなと。
これは極端な例であるけれど、似たようなことはどこかしこに転がっている。
私だって、よく誤解される。
まあ、さいきんは他人の判断基準に左右されなくなってきたので、別に良いが。
目の前のその人を自分のカテゴリーに入れて、それ以上見ないようにするのはなんというかすごくもったいないと思うのだ。
人間にカテゴリーなんてなくて、その人はひとりしかいない。
唯一無二十人十色
カテゴリーに入れるというのはすなわち、その人をもっと知れるチャンスを逃すことに等しいと思うのだ。一人の人を深く知るには、ものすごく時間がかかる。
また、どんなに時間をかけても知れるのはその人のほんの一部だということを決して忘れてはいけない。決して。一人の人間を知っていると思うのは、奢りでしかないと思う。
最近、1年ちょっとかけて1人の人を好きになったのだが、そのことから多くを学んだ。
そしてもう一つ、時間の件。
これはついついやってしまいがちだ。しかし、他人の時間を割くということにもっと危機感をもたなくてはいけない。
例えば、あの人は私との約束のために大事な予定をキャンセルしたのかもしれない。
これは私もけっこう当事者になったことがあって、あの人との約束のためにあれを断ったけどまさかのドタキャンみたいなことが結構ある。
これはハッキリ言って最低最悪だ。もうそいつのことが心からキライになる。
これを回避するためには、そうだな。
できない約束はしないことだ。
もっと清くよく生きていきたいと思った今日であった。
きちんとエンドユーザーのことを考えられているか
お客様第一とはよくいう。
直にエンドユーザーと触れ合わない仕事をしている場合、かなり気をつけなければその意識はどうしても薄くなってしまう。
私もまさしくそうであった。
ついつい数値ばかり追いかけてしまっていた。
ここの数値は上がった、ここは下がった、成果が出た、など。
忘れていたが、この数値は人間なのだ。ほんとうに喜ばせるべき人、考えなくてはいけない人は誰なのか。
間違えないようにしなくては。
ほんとうに、ほんとうのいみで、自由にいきられそうな気がしてきた
なんだかんだ、人目を気にしていた。
あの人は私のことどう思っているんだろう、とか。あの子は私よりも友だちがたくさんいていいな、とか。
こんな時こう考えるのって、おかしいの?私だけ?私って世の中一般でいったら普通の大学生なのかな?とか。
私ってイケてる?誰も私のことキライじゃない?好きでいて。嫌わないで。
誤解したままで好きでいて。
そういうことぜんぶ、なんかもう、よくなった。
私は私しかいないし、私なりに色々がんばってるし、それ故に楽しいこともある。
幸せの量なんて、どんな人でもそんなに変わらなくて、それをどのくらいの感度でもって感じられるかである。
私は幸せだ。
好きな人が近くにいる。尊敬している人も。
人生を使いたいと、思えることもある。
友人も、そんなに多くはないけど、大切な人がたくさんいる。
これから、楽しいことがきっと沢山ある。
私の人生を私のやり方で歩んでいきたい。
畏怖について
尊敬している人がふたりいる。
いや、もっといるけども、日常的に一緒に過ごすことが多いのがふたりだ。
大好きだし、より好かれたいと思う。
いつも敬意を持って接している。
何かを話すときは、姿勢をすっと正して緊張感をもって話す。
適当な事は言わない。
これで良いのだ。
畏怖や尊敬の念は、石のように重い。ずっしりと。
でも決しておろしてはいけない。
ずっともっていなくては。
最近あった良いこと
気分が落ち込んで、やる気が起こらないので
最近あったいい事を自分の中からサーチしてみようと思う。ちいさなしあわせをさがせ。
昨日、友人と将来の話で盛り上がったこと。人生における結婚や恋愛への価値観が、仲が良くてもまったく違っていて、だからこそお互いに面白がれた。最近思うことだが、人の価値観に興味はあるが、干渉しようとは思わない。
みんな、人の価値観に干渉しようとするから、争いとかそんな悪いことが起こるのだ。
みんな冷めているべきだ。人の行動や価値観なんてキミにはコントロールできない。
幸せへの感度について考えたこと。
何度も出ているテーマ、幸せへの感度。
なんでもないことや、ちいさな幸せを全身で幸せがれるようになりたい。
人が、一生のうちに得られる幸せとか、喜びとかって、総量でみたら大金持ちも貧乏人もそんなに変わらないんだ。
その人が幸せかどうかは、感度で決まる。
あと、幸せを見つけられる目線かな。
幸せを感じるのも一種の才能だから。
それから、大学から解放されたこと。
この間、大学生活最後の試験が終わった。
やっと、何かをやらされる時間から解放された。これからは、自分で選んだ道で、自分でやりたいと思ったことだけをやっていける。
この先、やりたくない事や意味のない事をやる必要はない。だって自分で選んだ道だから。
何はともあれ、学生が終わるというのは少しだけ寂しい、というか不安なものだ。責任が生まれる。
もう、誰も守ってはくれないし、甘やかしてもくれない。自分で生きていかなくては。
心地よいプレッシャー、そして期待。
楽しみである。色々な人に会うんだろう。
めんどくさがらずに前を向け。
何にオカネを使うか
今日は久々に一日遊んだ。
山に登ったり、ご飯を食べたり、買い物したりした。合計8000円くらい使った。
楽しかった。1日濃かったし、後で思い出して笑えるような思い出もできた。
こんな日を過ごすと、人生とは一体何なのだろうなと思う。
私は、仕事を中心に人生を設計したい。
それは、仕事で家族を幸せにしたり、かけがえのない仲間をつくったり、名声や賞賛を得たいからである。
それが楽しいと。
今日の楽しみは、与えられたものを消費することで得られる楽しみであり快楽であった。
得たものを、次の何かに活かせるようにしたいと思う。
お酒と人生
これから先のお酒との付き合い方を考えたい、というものである。
私はお酒がすごく弱い、今日もビールのカクテル1杯弱で死ぬほど吐いていた。
たぶん体調とホルモンバランスが何というか合間ってあんまり良くなく、いつもはギリギリOKな量でノックアウトしたのだ。
つらかった。もうお酒なんて飲まないと違った。
下戸の何と辛いことか。
もうお酒のない世界、例えばイスラム圏の一部地域とかに行きたい。
酒が弱い人間にとって、飲み会でお酒を飲むというのは、命懸けだ。
バカバカしい話である。なんで命をかけなきゃならないのか。そこに大義名分なんてないのに。飲み会自体は好きなんだけどな。
私は頭痛と吐き気と腹痛でうなりながら、本気でアルコールを断つことについて考えた。
こんな状態になったのは、今までに一度や二度じゃあない。
多分私はほんとうにお酒がダメなのだ。
お酒を飲む意味とはなんだろうか。
みんなが飲むから。ひとりだけソフトドリンクじゃあ、協調性がないと思われそうだから。
そんな理由である。
しかし、お酒を飲んで、寿命を削らなきゃ築けない人間関係って果たして人生に必要不可欠であろうかと。
お酒を酌み交わさなきゃ、近づけない?
お酒を飲まない奴は、異端分子として世の中から弾き出される?
という明け方であった。