瀟洒、典雅

日々思ったこととか、学んだことをアウトプットしていく

甘いものをついつい食べてしまうのは

いま、最近話題のサピエンス全史を読んでいるのだがこれが面白い。

 

ずっと疑問というか、納得していなかった、人はなぜ身体に悪いとわかっていてもあまいものを食べてしまうのか問題。

 

人間というのは、環境に適応して進化してきたから今日まで生き残ってきたのだ。それにも関わらず、毒だとわかっている多量の砂糖を摂取してしまうのはなぜか。

非合理的すぎる。

 

この答えがあった。人間の遺伝子には、我々がまだサバンナで生きていた頃の記憶が残っているらしい。

当時、甘いもの=熟れた果実は貴重品で、見つけたらその場でたべられるだけ食べてしまうのが一番確実な方法であったのだ。だから、我々は、生存本能から、甘いものを見つけたら残さず食べてしまうのだ。。。

 

なんと。

 

やはり甘いものへの欲求は本能だったのだ。だから、抗えない。

 

人類が生まれて何万年も経っているのに進化していない部分もあるなんて不思議だ。

 

そして我々が他の動物を出し抜いてここまで繁栄したことの秘訣は、「虚構」を信じることができたからであるという。

例えば、神話や法律や道徳や社会のルールや、そういったものすべてである。

確かに、これらは実体を持たない、虚構である。

でも、今の世の中、手で触れられるモノにはなんの価値もない。

 

手で触れられないもの、例えば名誉や愛や信頼や、幸福といったそんなものを手に入れるために現代人は生きているのだ。

 

つくづく不思議だ。こうやって、私がここに生きていることも。

もしかしたら、というかおそらく人類がこうやって繁栄していられるのはきっとほんの一瞬に過ぎないのだろう。

この時代にここに生まれたことが幸福か不幸か。

やさしさとは

 

例えば、目の前の死にそうな人を助けたら、自分も死ぬかもしれない。

そんなとき、どうするだろうか。

 

考える前に体が動くか、それともどうすれば良いか分からなくて固まってしまうだろうか。

 

仮に、命をかけて助けたられたとする。

その人はみんなから喝采を浴び、栄誉を手にするだろう。

しかしその人はそんなもののために命を懸けたのではないのかもしれない。

 

 

 

 

100%、誰かのために何かをすることはできるのだろうか。

それは無理なんじゃないかと思う。

命をかけて目の前の死にそうな人を助けた彼も、その人を助けたいという衝動にも似た気持ちと、目の前の人を見捨ててこのまま生きていくことの胸糞悪さというか、後悔とか、そういったものを感じたくないから、という気持ちも少なからずあったのではないかと思うのだ。

とどのつまり、自分のためだ。

自分が、自分に失望したくないから。みたいな。

 

それが悪いことだとは全然思っていなくて、なんというか、人間だったら当たり前のことじゃないかと思うのだ。

 

愛故に尽くすことさえも例外ではない。

その人のことが好きで好きでしょうがなくて、幸せになってほしい。だから誠心誠意尽くす。それは、純粋に愛する人のためを思っているのと同時に、自分のためでもあるのだ。

愛する人の幸せは自分の幸せでもあり、愛する人の痛みは自分の痛みでもあるからだ。

 

という、人はみんな結局利己的でしかないという話。

恩を返しながら生きていきたい

自分の人生を何に使うか。

これからどうやっていきていこうか。

 

私は今日まで生きてきて、恩を受けすぎてしまった。22歳にして、一生かかっても返しきれないほどの恩を、家族や周りの人や社会やそのほか色々なものから受けすぎた。

 

これはえらいことである。

これから、一生をかけてたくさんの人に恩を返して行かなくてはいけない。

そうでなくては気が済まない。このまま、何もできずに、例えば明日死んでしまったとしたら、死んでも死に切れない。おそらく執念で復活するであろう。

 

自分のためではなく、誰かのために生きていきたい。それが自分の幸せであると、そう思いたい。

尊敬している人に、その旨を伝えたいというのは傲慢なのか

 

表題の通りである。

もし私が尊敬してます、とか言われたら素直に嬉しい。

ひとによって、コイツ本気で言ってるのかしらん、と思うこともあるかもしれないが。

 

しかし、相手への尊敬を含む好意とか、あなたみたいになりたいっていうのは、一方的にこちらが思っていることだ。

伝えたいと思うのは、傲慢というか、単なる自己満足というか、伝えたところで何やねんというか、相手にとっては別にオマエに尊敬されてもね。ってなこともあるかもしれんのである。

 

つくづく、人との関係ってシンプルなようで難しい。

感謝を伝えたい

この間大学を卒業し、3年間働いたインターン先を退職することとなった。

 

寂しくてしょうがない。

いままでの人生で、何か新しいステップのためにある場所を去ることについて、ワクワクするとは思っても、寂しいと思ったことはなかった。

 

なぜ、こんなにも寂しいのか。

何より、職場の人たちのことが好きだ。すごくお世話になった。返しきれないほどの恩がある。

 

なぜそうおもうのか。

色々と任せてくれた。自由にさせてくれた。

その中で、学べたことが沢山あった。

 

おそらく、ここにきていなかったら人生の醍醐味?いちばん美味しいところをみすみす逃してしまっていたと思う。

具体的には、同じ思いを持った人たちと何かを成し遂げることや、脳から汗が出るほど何かについて悩み考えること。

達成した時の喜びや、その他エトセトラである。

 

ほんとうによかった。あの時、今のこの道を選択した自分を褒めたい。

深みのある人間とは

何かについて深く語れる人間になるには。

何かについて、独特の切り口で、深く語れる。

しかも、付け焼刃のような知識ではなく、すべての事柄に一貫してその芯を貫けるようなそんな人間になりたいと思う。

おカネは天から降ってこないという発想

私の家は農家なので、親はずっと家で働いていた。
畑を耕して作物を育てる。牛や鶏に餌をやる。
そうやってはたらく両親を小さなころからずっと見てきて、時には泥にまみれて手伝いもした。
おカネは、泥と汗と牛糞のにおいがするものだ。命を切り刻んで、はたらいて、初めて得られるものだということを事実として理解する前に、本能で感じ取っていた。
 
印象に残っているのは、牛の思い出である。
家に牛舎があって、牛がたくさんいた。
牛は産まれてたった1時間で立つ。そして、1か月で親から引き離される。
そして健康な牛は、トラックに乗って競り市に連れていかれるのだ。そこでどこかに売られ、肉となる。
かわいそうなのは、親牛から引き離された晩、子牛が悲しくて涙を流しながら泣いている声をきくときだ。
牛は、悲しいという感情をもっていて、涙を流すのだ。人と同じである。
 
当たり前だが、何かしらの価値を生まなければおカネを手に入れることは出来ない。
生きていくためには。