心の土壌
時期によって、よく考えることや思い悩むことは変化する。
たとえば大学の頃は、自分の性格とか、友だちが少ないこととか、
高校の頃は容姿とか、ちょっと脚が太いこととか。
そんなことを本気で悩んで、考えて、辛くなっていた。
当時はそれしか見えなくて、もう、ああってなってたりもしたんだけど、ちょっと経った今現在、これらの悩みがほぼほぼ消滅してしまっているから不思議だ。
容姿なんて変わらないし、友だちが急に300人増えたわけでもない。
ふしぎだ。
性格を詮索されることに対する嫌悪感
どうも嫌なのだ。
あなたって〇〇な人だよね。
や、もしかしてあなたって〇〇?(優柔不断とか、話すの苦手とか)
世の中には、こうも、他人にレッテルを貼ってしまっておきたい人種がいるようなのだ。
人の性格なんて、ちゃちな言葉ひとつで表現できるほど単純ではないと思うのだ。
別に良い。
大事でない人にどう思われても構わないのだけれど。
人生の軸となるもの
生きていく意味を見つけたい。
何の為なのか。人生とは。
何もかもみんな全部あんたにあげる。
このあんた、を。
別に人でなくてもいいのだ。
自分の人生を振り切っても良い何かを手に入れたい。
でないと、フラフラしてしょうがないと思う。
最近の変化
最近仕事を始めて、変化したこと。
自身をネタにできるようになった。
ヘンなプライドは捨てた。
どんな人に対しても、自分をさらけ出せるようになった。
根拠のない自信がもてるようになった。
一方で、今まで積み重ねてきたものを全部投げ捨てた。
気付いたら、投げ捨てていた。
たった22年間の人生で、何も成し遂げていないし、きめられたことなんて何もないし、変えられないことなんてなにもないのだ。
今まで、いろいろと考えすぎていたのかもしれない。
世の中にはいろんな人がいる。
そして、みんな同じようなことをして、同じようなことに感動したりはしゃいだりして生きている。
暇をつぶしながら生きているのだ。
孤独に食べるからこそor誰かと食べるからこそ
世の中には、孤独に食べるからこそ美味しいものと、誰かと食べるからこそ美味しいものがある。
例えば、カロリーの高いコンビニ弁当なんかはひとりでがつがつと食べたい。
ただカロリーを摂取することだけに集中して、もう本能のままに、ひどい顔をしてたったひとりの部屋で食べたい。
反対に、おしゃれなイタリアンなどは誰かと一緒に食べたい。
フォークとナイフを行儀よく使って、上品に見えるように気をつけて食べたい。
それだからこそ美味しい。
どちらの食事も好きである。
ただ、前者のような食事ばかりだと心が荒むし、後者の食事ばかりだと気持ちが休まらない。
バランスが大切である。