瀟洒、典雅

日々思ったこととか、学んだことをアウトプットしていく

もっと刹那的に生きたい

私は、どうもだめだ。

1年先のこととか、将来のためにいま苦労しておかなきゃ、とか、考えてしまうほうだ。

もっと今が楽しいなら、今にお金使ったり、明日のために、あまり会わなくなるかもしれないあの人のために、何かやる、みたいなことをもっとやらなきゃいけないと思う。

後先考えずに生きてみるってのをやらなきゃいけない。

後を考えすぎだ、これでも。

もっと刹那的に生きたい

24歳前後で、楽しいことがそれまでと比べてかなり増えたように思う。

24歳までは、割とサステナブルな生き方をしなくちゃという気持ちで生きていた。

毎日の食事は出来るだけ安くおさえて、服も、長く使えるものを。

3年先のことを考えて、今苦労したりスキルを身に着けたりしなくちゃ。

でも、ほんとうの意味で楽しくはなかった。

虚勢を張って楽しそうに見せたり、楽しそうなのはすべてブランディングであった。

24歳の時、その後私の人生のなかでかなり大事な位置づけになる人々に出会って。

今までの人生で高校が割といちばんたのしくて、休みの日に自転車で学校に行って

近くのコンビニでお菓子をたくさん買ってみんなで食べたり、

近くの丘の上にある公演でみんなで走りまわったりした、そんなキラキラした思い出がたくさんあるのだけれど、そんな感じだ。

忘れていたけれど、高校の時も思い返せば刹那的に生きていた。

今、その頃のことを思い出している。

現在、東京で1人で暮らしていて、独身でお金も最低限の生活をするのと毎週好きな人々とご飯を食べるくらいはあって、すごく自由だ。

何をしてもいいし、何もしなくてもいい。

土曜日の19時くらいの気持ちである。

だから、なんというかそんなに後先考えなくてもいいのかなと思う。

今をちゃんと生きていれば、すごく不幸になることはきっとない。

芸術について思うこと

芸術について思うこと
芸術がもし、この世になかったらどうだろう。
小さい頃、人間がこの世に許されているのは美しいもの、例えば音楽とか建築物を生み出せるからであると信じていた。
歌手は、世界が始まって初めて生まれた職業だという。
例えば、芸術品がなくなってしまったら、生きていく分には何も困らないかもしれない。
でも、間違いなく味気なくなるだろう。
最後に残る人間の仕事は芸術品をつくることではないかと思う。

発信の頻度

やっぱり、辛かったり、すごく好きな人がいたりすると何もしなくても勝手に詩がうまれるし、世界に伝えたいこともどんどん溢れ出てくる。

でも、心を動かさず、地味に辛い日々が続くと発汗したいことなんてなくなってくる。

どうしたら、自分を楽しませて、発信させ続けられるのだろうか。

毎日、ワクワクして、キラキラしていたい。

嫉妬と羨望について

 しっと
 【嫉妬
 
  1. 《名・ス他》
    やきもち。
    • 他人が自分より恵まれていたり、すぐれていることに対して、うらやみねたむこと。
       「兄弟分の出世に―する」
    • 自分の愛する者の愛情が他に向くのを恨み憎むこと。
       「愛人が妻に―する」
      せんぼう
      羨望
      《名・ス他》
      うらやましく思うこと。
       「―の的」
      1.  
    • 嫉妬は、まだ相手とのギャップに具体的にイメージついている感じがするが、羨望は完全に別世界、自分には逆立ちしてもおよばない。

    そんな感じがするから、私は羨望のほうがキリキリする。

    そんなことが最近あった。

    自分の範囲のことで、相手が自分よりも優れている時、嫉妬するのだけれど、根本は憧れている。

    悔しいというか、ああ、私には無理だなという無力感を感じてしまう。

    羨望や嫉妬って、2番めにキライな感情だと気付いた今日。

    •  

3つ以上のコミュニティに属するようになって変わったこと

改めて考えてみると、今5つくらいのコミュニティに属している。

仕事とか家族も含めて。

少し前、仕事と家の往復だった日々に比べるとすごく良くなったと思う。

まず、一個で何かうまくいかないことがあっても、自分を肯定できるようになった。

生き辛いときって、単にその環境にフィットしてないだけの可能性も大いにあるから自分はだめなんだと安易に思わないほうが良い。

そして、色んな方向のインプットをするようになったことで、色んな考え方が出来るようになった。

営業、マーケティング、芸術、プログラミング、組織づくり…

考えの幅はぐっと広がったように思う。

そして、人生はほんとうに自由であるなと思った。

別に会社に所属するだけが生きていく方法ではないし、たった1人の私の輪郭が出来上がりつつあるような気がする。

なんというか、すべて私なのだ。

色んな私がいるけれど、すべてごっちゃにした私にしか見られない景色や理解できない価値観があるような気がする。

色んな物事の解像度が上がってきているように思う。

文芸に興味が出てきたから、そっち方面のコミュニティーにも属してみたいと思う。

1,000円払って手に入れたもの

何かにお金を出すときは、基本的にそれ以上の対価を受け取りたいと思っている。

対価の基準は、

■どれだけ話のネタになるか

■自分を「どのくらいの期間」「どのくらい」楽しませることができるか

■どれだけ新しいか

といったものである。

自分の感受性等の問題で、そのメリットを享受出来ない可能性もあるが、

基本的には今もちあわせている感性で、どれだけの価値を見いだせるかにかかっている。

この間、「DEAN&DELUCA」という雑貨屋さんか何かが出しているカフェで

「デリボウル」を1,200円くらい出して食べた。

しゃーなしだった。「もったいねえなあ」と思いながら食べていた。

1,200円払えば、松屋に4回は行ける。

じゃあ、この体験を最大化しようと思ながら食べた。

まず、購入した時にトッピングしてほしいデリを選ぶ。

まず、デリってなんなんだ。

アボガドのつぶしたやつとか、エビと何かのやつとか、おしゃれな4つの中から3つを選んで