さみしくなりたい
きみの言い訳は最高の芸術というエッセイを読み返している。
さみしくなりたい。という章を読んで
わたしはどうなんだろう。
他人と、深い関係を築きたいのだろうか。
他人を自分の沼に引きずり込み、自分も他人の沼に溺れたいのだろうか。(この、沼に溺れる、という表現がしっくりくる)
否か。
答えは、溺れたい。
ずっとそうだった。
誰かと深い関係を築いて、痛みや苦しみや、ハッピーも、いろいろな強烈な感情を、その温度のままに共有したい。
目の前を通り過ぎてゆく、変なおじさんや、最近のニュースや、経済や、話題のwebサービスや、そんな話ではなくて。
もっと、それらに付随する、自分の価値観やその価値観の背景や、気持ちや、トラウマや、そんなことを話したいのだ。
ただ、それを実行するにはこわさももちろんある。
自分をさらけ出すのはこわいことだ。
いや、ちょっとちがう。
さらけ出すって何を。って話だ。
まだまだ、さらけ出すほどの中身がつまっていなくて、スカスカだということがバレるのがこわいのだ。きっとそうだ。
スカスカじゃなくなるためには、どうすればよいのか。ずっとチャレンジしている。