書くことについて
しばらく心身の調子を崩していた。
今だって調子が良いわけではない。なんだか憂鬱な日がしばらく続いている。
原因について考えてみた。
そういえば、昨年の10月以降、長い文章を書いていないことに気づく。
書くとこで、自分の悲しみを物語に昇華したりちょっと俯瞰して見れたりするものだ。
自分を中からじゃなく、ちょっと離れてみる感覚。あれは癒やしだった。
それをしていない。
最近気づいたが、メンタルにもメンテナンスが必要だと思う。自転車は油を刺したり微調整をしなくちゃ、すぐにダメになってしまう。
それと同じで、人の心というのもちゃんとケアをしないと荒れ果ててしまうのだ。
話は逸れるが、久々に文章を書いていて、フィット感のある言葉を探して、たまたま見つかった時のこの快感よ。文章を書く醍醐味とはこれだった、少しずつ思い出している。
メンタルのメンテナンスとして有用なのが、モヤモヤとか気持ちを文章にするというこの作業だ。
そう、ちょっと前まで、私のことを無条件で肯定してくれる他人がいた。
私の話を聞いて、理解して肯定してくれる。
この存在が、どれだけ生きる上で役に立つか私は失うまで気づいていなかった。
重荷をおろした話
はじめてセックスをした時、大袈裟でもなんでもなく「終わりだ」と思った。
だって私の欠けていたピースはすべて埋められて、完成してしまった。満たされた。
思えば、私がここまでしちめんどうくさいことや、辛いことに耐えて、多少人生が辛くても自分を騙し騙し生きて、とにかく少しでもマシな人間になろうとしていたのは、「自分はこのままじゃダメなんじゃないか」という危機感があったからだった。
だから偏差値の高い大学にも行ったし、良い会社にも入った。美人ではないけれどメイクと服でそれなりに見えるようにもしてきた。
卑屈になっているのは否めないのだけど、私はマイナスだ、という強いコンプレックスがすべての原動力だったので。
でも、もうそれも終わり。
セックスと最低限生活できるだけのお金があれば、他になにがいるのだろうと思ってしまう。
反対にここまで私を負のエネルギーで支えてくれた私の処女よ。
ずっと邪魔だと思っていた。こんなものは早く捨ててしまいたい。捨ててしまえば私はもっと速く、高く飛べると思っていた。それは半分合っていたし、間違ってもいた。確かに処女は重荷だったし、面倒だったけれど、だからこそ私は自分に負けないための武器を身につけていた。
でもまあ、人間なんて業の深い生き物なので次の火種もすぐに見つかるのだろう。
雑感
最近、急を要することがあって別れについて考えている。
ある人との別れが数ヶ月後にくることが確定してしまい、そのことについて考えると辛くなるので、反対にそのことについて考えてみようという試みである。
たぶん、誰かとの別れについて、そのことが悲しいと思える理由はいくつかあってそれらが複雑に絡み合っている。
例えば単純にその人が、その人と過ごす時間が好きでそれを失うことが耐えられない。
または、その人と一緒にいる自分が好きで、その自分が失われてしまうことが悲しい。
いま自分がそこにいることや、生きていることをその人に依存していて、それが失われてしまうことが悲しいんだということ。
思えば私は、ここ最近ずっと自分が生きている意味合いや理由を身近な誰かに依存して生きてきた。
その誰かが、私がその場所にいる理由になっていた。
たぶん、それが不在だった高校大学の数年間は、拠り所がなかったから、なんとなくフワフワとして、時々死にたくなったりとか、していたんだと思う。
そして依存先がある時、例えばその依存先が失われると分かった瞬間から、実際に失われるまでの期間で何度もひとりで別れの練習をしていた。
その人との別れをシミュレーションして、少しだけ傷ついて、そして少しずつ慣れていった。
別れる頃には、割とその人がいなくても生きられる自分になっていた。
だから、悲しみで立ち上がれなくなったりはあんまり、しなかったように思う。
いま、きっとその期間なんだ。
彼らがいなくなることを考えると悲しい。これはたぶん自己防衛で、わたしはひとりで別れの練習をしている。
雑感
ここ最近、いろいろなことがめんどくさい。
仕事、友達、恋愛、文章を書くこと、あらゆることがたかのしれたことのような気がする。
もうこの世のどこにも、美味しいところは残っていないような。
無味乾燥、そんな気分。
友達たちを、自分から遠ざけた。それでなんとなく孤独な気分になっている。正直寂しい。
でも、また前みたいにちゃんとコミュニケーションとって、笑って、ってやるのがもうどうにも面倒くさいのだ。ほんとうにエネルギーが下がっている。
以前好きだったものへの興味も下がってきている。
これは何なのだろう。一段階上にいこうとしている?それとも停滞している?なんだろう
久々に
今まで、心が叫びたいことを文章にしてきたけど一ヶ月くらいそれを忘れていた。
心が叫びたいことがなかった。
毎日、抑圧されて自分を責め続ける日々。
周りの人はすごく好きだけど、自分の無力さを自覚させられ続けて心が泣いていた日々。
今日、久々に晴れた気がする。
何も変わってはいないけれど、私は。
でも、わたしには何もないんだと気付いた。
みんな、きっとそうなのだ。
何もない、全てもっていそうに見える人も実は何もない。
気持ちだけだ、きっと、何かをやりたいったいう気持ちだけなんだ、私が持っているのは。
好きな人、助けたい人、たくさんいる。
逃げずに向き合わなきゃいけないと思う。
自分で選んだ場所で生きているか?
時々、まだ幼かった頃の夢を見る。
夢の内容は全く覚えていないのだけれど、まだ私は実家に住んでいて、家族と一緒にいる。そして、ふっと目覚めて、あ、私いま東京にひとりなんだ、と気づいて悲しくなる。
最近は減ったけれど、まだ時々ある。
まだ実家にいた頃は、私は守られていた。
幼少期は家族の中で、小学校は学区内の決められた小学校で。
自分で自分の居場所を選択する必要はなかった。
でも、大学からは、自分の生きる場所は自分で探さなくてはいけなくなった。
そこから、色々な場所に居たし、色々な新しい人にあったし、もう今はどこで何をしているのかも分からない人もたくさんいるし、もうあまり思い出せない場所もたくさんある。
今働いている会社だって、周りにいる人々だって、私が選んだのだ。
選択することがこわくて、私はいつも自分からは何もしてこなかった。
けれども、今は間違いなく小さな選択をしてきた結果だ。それがすごくこわい。
だって、守られてきた時間のほうがまだ私のなかでは長いのだから。
写真は
写真はキライだと思っていたけれど、台風の夜に過去5年位の写真を整理していて、すごくセンチメンタルな気持ちになっていて、やっぱり写真って撮れる時に取ったほうがいいよなと思った。
だって写真って、見るだけで撮った当時のことを瞬時に思い出せる。
この時、こんな気持だったよなあ、とか。
この時のファッションこんなに尖ってたけど、この時は私の哲学に沿って生きてたんだよなあとか。
この人のこと、一時期すごく好きだったよなあとか。
この時の自分に比べて、今の自分成長したよなあとか。
昔の馬鹿な自分、かわいいよなとか。
だから、写真、キライだけど撮るようにしよう。
そう、Googlephotoもあるし。