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備忘

日々思ったこととか、学んだことをアウトプットしていく

苦しみと前進

はてブで話題になっていたこの記事。

童貞を卒業してしまったら、精神年齢がストップするというところが面白かった。

 

これはかなりうなずける。

まだティーンエイジャーだった頃は、色々なことが不満で、不思議で、死にそうなほど悩んだりした。

自意識。

どうにもならないこと、例えばこれから生きていくことや死んでいくことへの絶望感。

 

池澤夏樹の本に、朝焼けと旅人という詩があった。内容は、ずっと「美しい朝焼け」を集めていた旅人がある日それまでに見たこともないくらい美しい朝焼けを見たことから、満足して朝焼けを見ることを辞めてしまうというものだ。

 

これと似たところがある。

 

模索することや、どうしようもないことで悩み苦しむことを辞めてしまうのだ。

それは辞めてもいいことなのかもしれない。

しかし、悩み苦しむことは魂を磨くことのようなものだと思うのだ。

 

童貞を過ぎ去ってからでは至れない境地に達することができる。

 

 

 

 

色んなモノを消費した感想

最近、引っ越しに伴ってたくさんのモノを消費した。

たくさんのサービスを利用した。

 

不動産屋、インターネット回線の代理店、楽天とかのECサイト、引っ越し比較サイト、ヤマト、佐川、電力会社とかのインフラ、、、

 

おカネの匂いがめっちゃするサービスと、そうでないサービス。

純粋に世の中や目の前の人の役に立ちたいと思っているサービス、そうでないサービス。

世の中には様々な商品やサービスがあるものだ。

 

中でもクソだと思ったのは、一部のインターネット回線の代理店である。

全ての代理店がそうだとは思わない。

しかし、不動産会社のアンケートを装って電話をかけてきたあの代理店はクソだった。詐欺である。

 

というか、今回電話がかかってくるまでそんな光回線業界の熾烈な競争を知らなかった。

 

私は、人生においてただ単にお金が稼げればいいとは思わない。

意味のある人生を送りたいと思う。世の中に0.1を足したい。

 

お金は必要な分だけもっていればいいから、好きな人のために、そしてそのついでに世の中の約にも立つようなことに人生を使っていきたい。

さみしくなりたい

きみの言い訳は最高の芸術というエッセイを読み返している。

 

さみしくなりたい。という章を読んで

 

わたしはどうなんだろう。

他人と、深い関係を築きたいのだろうか。

他人を自分の沼に引きずり込み、自分も他人の沼に溺れたいのだろうか。(この、沼に溺れる、という表現がしっくりくる)

否か。

 

答えは、溺れたい。

 

ずっとそうだった。

誰かと深い関係を築いて、痛みや苦しみや、ハッピーも、いろいろな強烈な感情を、その温度のままに共有したい。

目の前を通り過ぎてゆく、変なおじさんや、最近のニュースや、経済や、話題のwebサービスや、そんな話ではなくて。

もっと、それらに付随する、自分の価値観やその価値観の背景や、気持ちや、トラウマや、そんなことを話したいのだ。

 

ただ、それを実行するにはこわさももちろんある。

自分をさらけ出すのはこわいことだ。

いや、ちょっとちがう。

さらけ出すって何を。って話だ。

 

まだまだ、さらけ出すほどの中身がつまっていなくて、スカスカだということがバレるのがこわいのだ。きっとそうだ。

 

スカスカじゃなくなるためには、どうすればよいのか。ずっとチャレンジしている。

 

音楽と思い出 スピッツは女だと思っていた

高校のときのお昼休みには、放送部の生徒によるラジオ番組みたいなものが時折かかっていてその中にどんなラジオ番組にも必ずある、音楽のコーナーというものがあった。

ただふつうのラジオ番組とちがうのは、リクエストの音楽をかけるのではなくて、いつも同じ音楽をかけていたこと。

毎回なので、すっかり覚えてしまった。

 

最近になって判明したのだが、あのときの音楽はユーミンの14番目の月、のスピッツのカバーだった。

 

人というのはある音楽を何度も聞くと、ついつい好きになってしまうものらしい。

例に漏れず、私もスピッツの14番目の月が好きになった。

でも、何の曲かわからない。

当時、YouTubeとかiTunesなんてないから、メロディや歌詞の断片を手掛かりに、曲名を探すのは困難だった。

 

今は良い世の中になったものだ。

だって、iPhoneに向かって鼻歌をうたえば曲を探してくれるのだ。なんということだ。

小さい頃、よくラジオや街角や、誰かの車でかかっている音楽を聞いて、いいな、と思っても何の曲か分からない。曲名がわからないから再び聞くことはできない。という、迷宮入りしたお気に入りの1曲がたくさんある。

悲しいことだ。

もし今なら、すぐに検索してiTunesでダウンロードすれば、ずっと手元に置いておくことができるのに。

 

でも一方で、手に入りづらいということのメリットもある。

それは、再び迷宮入りしたお気に入りの一曲に出会えたときの感動がはんぱなくて、それはかなりとくべつな一曲になるのだ。

 

そうだな、私の場合はあれだ。

Tears For FearsのSowing the Seeds of Loveという古い曲だ。

もう名前も忘れた友達がくれたカセットテープに入っていた曲だ。すごく好きで、何回も聞いているうちにカセットテープが擦り切れてしまった。

終わりだ。もう二度と聞くことはできない。

 

そう思っていたら、偶然みたONE DAYという映画の挿入歌で使われていて、もう泣きそうなくらい感動した。

これ!!!この曲!!!ずっと探してた!!!

 

もう二度と会えないと思っていた人に再会できた気持ちとでも言おうか。

 

 

 

 

話はだいぶそれたが、私はスピッツの14番目の月だけ聞いて、この声の主は女性だと思い込んでいた。

なんて色っぽい艶のある声なんだと思っていて、私も26くらいになったらこんな恋がしたいと思っていた。

 

なんと男だったとは。

 

こういうのがあるから面白い。

 

世の中にあるすべての音楽をきくことは無理だろう。

だからこそ、耳にする音楽を、たまたま耳に入ったものも含めて、大事にしていきたい。

 

好きなことって

お金もらってないけどやっちゃう。

そんな、めっちゃ好きなことってなんだろうかと。

 

昔を振り返ると、小学生とかのときは「図工」が好きだった。

何かを作ったり、絵を書いたりとかそんな。

服とか、おもちゃとか秘密基地とか、テーマパークまで全部じぶんたちで作っていた。

学校の図工の時間では、「この世に存在しない花」の絵とか斬新な技法を使った絵とか。それはまあまあクリエイティブな子供だったと思う。

 

どうしてあんなに次々とアイデアが浮かんだのだろうか。今となっては不思議である。

 

当時は文章を書くことも好きであった。

小説や作文をよく書いていた。

あの頃は、伝えたいことがたくさんあったのだろう。たとえ取るに足らないことであったとしても。

 

そして、歌。

地味に歌はものすごく好きであった。家でもよく歌っていた。

当時、めちゃくちゃこわい、もうほぼキチガイみたいな音楽の先生がいたのだが、

そんな過酷な環境でも歌を歌える音楽の授業が実は好きであった。

懐かしい。音楽は力だった。もうほぼ、生きるすべであった。

 

今となっては、当時と比べたらなんと生ぬるいなかで生きていることか。

辛いことなんてほとんどないし、誰かに死ぬほど否定されることもない。

 

ノスタルジー。

 

というわけで、歌とものづくりと文章という、今から就く職業とは全く違うものであるが。何かしら通ずるものはある気がする。

なにはともあれ頑張ってみる。

甘いものをついつい食べてしまうのは

いま、最近話題のサピエンス全史を読んでいるのだがこれが面白い。

 

ずっと疑問というか、納得していなかった、人はなぜ身体に悪いとわかっていてもあまいものを食べてしまうのか問題。

 

人間というのは、環境に適応して進化してきたから今日まで生き残ってきたのだ。それにも関わらず、毒だとわかっている多量の砂糖を摂取してしまうのはなぜか。

非合理的すぎる。

 

この答えがあった。人間の遺伝子には、我々がまだサバンナで生きていた頃の記憶が残っているらしい。

当時、甘いもの=熟れた果実は貴重品で、見つけたらその場でたべられるだけ食べてしまうのが一番確実な方法であったのだ。だから、我々は、生存本能から、甘いものを見つけたら残さず食べてしまうのだ。。。

 

なんと。

 

やはり甘いものへの欲求は本能だったのだ。だから、抗えない。

 

人類が生まれて何万年も経っているのに進化していない部分もあるなんて不思議だ。

 

そして我々が他の動物を出し抜いてここまで繁栄したことの秘訣は、「虚構」を信じることができたからであるという。

例えば、神話や法律や道徳や社会のルールや、そういったものすべてである。

確かに、これらは実体を持たない、虚構である。

でも、今の世の中、手で触れられるモノにはなんの価値もない。

 

手で触れられないもの、例えば名誉や愛や信頼や、幸福といったそんなものを手に入れるために現代人は生きているのだ。

 

つくづく不思議だ。こうやって、私がここに生きていることも。

もしかしたら、というかおそらく人類がこうやって繁栄していられるのはきっとほんの一瞬に過ぎないのだろう。

この時代にここに生まれたことが幸福か不幸か。

やさしさとは

 

例えば、目の前の死にそうな人を助けたら、自分も死ぬかもしれない。

そんなとき、どうするだろうか。

 

考える前に体が動くか、それともどうすれば良いか分からなくて固まってしまうだろうか。

 

仮に、命をかけて助けたられたとする。

その人はみんなから喝采を浴び、栄誉を手にするだろう。

しかしその人はそんなもののために命を懸けたのではないのかもしれない。

 

 

 

 

100%、誰かのために何かをすることはできるのだろうか。

それは無理なんじゃないかと思う。

命をかけて目の前の死にそうな人を助けた彼も、その人を助けたいという衝動にも似た気持ちと、目の前の人を見捨ててこのまま生きていくことの胸糞悪さというか、後悔とか、そういったものを感じたくないから、という気持ちも少なからずあったのではないかと思うのだ。

とどのつまり、自分のためだ。

自分が、自分に失望したくないから。みたいな。

 

それが悪いことだとは全然思っていなくて、なんというか、人間だったら当たり前のことじゃないかと思うのだ。

 

愛故に尽くすことさえも例外ではない。

その人のことが好きで好きでしょうがなくて、幸せになってほしい。だから誠心誠意尽くす。それは、純粋に愛する人のためを思っているのと同時に、自分のためでもあるのだ。

愛する人の幸せは自分の幸せでもあり、愛する人の痛みは自分の痛みでもあるからだ。

 

という、人はみんな結局利己的でしかないという話。