靴ずれの痛みは、終わった恋を捨て去るときの痛みなのだ。
最近久々に、9センチもヒールのある靴を買った。
ヒールは良い。
はいて歩くだけで、背筋がしゃんと伸びる。地面を叩く音が、耳に心地良い。
なぜ、ヒールを買ったのかというと最近いいなと思っている人が、私よりも30センチも背が高いからだ。
我ながら、くだらない女である。
そして夕方には、思っていたとおり靴ずれができた。
恵比寿駅までの坂道を登りながら泣いた。この痛みは、終わった恋にさよならするための痛みだ。
前に好きだったひとは、男性にしては背が低かった。
私よりも少し高いくらいの身長で、一重まぶただった。
だから私は、彼の身長を追い越さないようにかかとの低い靴ばかりをはいていた。
カジュアルな彼の隣りにいても浮かないように、デニムばかりはいていた。
彼が好きだったOasisやEmbraceを貪り聞いて、Java scriptを少しだけかじった。(彼はエンジニアだった)
そうやって、思いを伝えることはできずに、11月は過ぎて彼は私の前からいなくなった。きちんと失恋することもできない、不完全燃焼な恋であった。
そんなことを思い出した。
夕焼けとは、人を必要以上にセンチメンタルにするから良くない。
今でもUKロックは好きで、相変わらずデニムもはいているけれど、
たぶんしばらくはかかとの低い靴は履かないかな。
心の土壌
時期によって、よく考えることや思い悩むことは変化する。
たとえば大学の頃は、自分の性格とか、友だちが少ないこととか、
高校の頃は容姿とか、ちょっと脚が太いこととか。
そんなことを本気で悩んで、考えて、辛くなっていた。
当時はそれしか見えなくて、もう、ああってなってたりもしたんだけど、ちょっと経った今現在、これらの悩みがほぼほぼ消滅してしまっているから不思議だ。
容姿なんて変わらないし、友だちが急に300人増えたわけでもない。
ふしぎだ。
性格を詮索されることに対する嫌悪感
どうも嫌なのだ。
あなたって〇〇な人だよね。
や、もしかしてあなたって〇〇?(優柔不断とか、話すの苦手とか)
世の中には、こうも、他人にレッテルを貼ってしまっておきたい人種がいるようなのだ。
人の性格なんて、ちゃちな言葉ひとつで表現できるほど単純ではないと思うのだ。
別に良い。
大事でない人にどう思われても構わないのだけれど。
人生の軸となるもの
生きていく意味を見つけたい。
何の為なのか。人生とは。
何もかもみんな全部あんたにあげる。
このあんた、を。
別に人でなくてもいいのだ。
自分の人生を振り切っても良い何かを手に入れたい。
でないと、フラフラしてしょうがないと思う。
最近の変化
最近仕事を始めて、変化したこと。
自身をネタにできるようになった。
ヘンなプライドは捨てた。
どんな人に対しても、自分をさらけ出せるようになった。
根拠のない自信がもてるようになった。
一方で、今まで積み重ねてきたものを全部投げ捨てた。
気付いたら、投げ捨てていた。
たった22年間の人生で、何も成し遂げていないし、きめられたことなんて何もないし、変えられないことなんてなにもないのだ。
今まで、いろいろと考えすぎていたのかもしれない。
世の中にはいろんな人がいる。
そして、みんな同じようなことをして、同じようなことに感動したりはしゃいだりして生きている。
暇をつぶしながら生きているのだ。